心と対話する建築・家
―心理・デザインプロセス・コラージュ― 書評
東海大学教授 山崎 俊裕
現代は「心」の時代と言われる。ものが豊かになる反面、社会病理として「心」の病がさまざまな形・様相で顕在化し、社会の至る所で「心」「対話」の重要性が今、力説されている。
建築家の職能の一つはクライアントの「心」の中に潜む、漠然とした曖昧かつ抽象的な思いやイメージを都市・建築・家空間として具現化することであり、そのためには「心」と「対話」する方法論がことさら重要な意味を有している。
本書の著者、連健夫氏は学生時代から人間の「心」そして「対人関係」の問題について強い興味・関心を示してきた人物で、「機能性・耐久性・健康への配慮のみならず、何らかの形で人の心に良い影響が与えられる建築・家、癒され元気になる建築」を目指すという氏の建築デザインに通底する哲学は、これまで氏が関わった建築作品各部空間・意匠に表出しているだけでなく、各種プロジェクトを通して知り合ったクライアントや関係者との人間関係・信頼関係にもよく表れている。
クライアントの心を投影する「コラージュ」を丹念に分析・考察しながらからデザインを試みる具体的な方法と実践活動を著した本書は、建築家のみならず建築教育に関わる教師や学生にとって、間違いなく役にたつ良書である。
建築デザインを学ぶ過程で建築の学生は各種のサーベイを一般に行うが、サーベイそのものは得意だけどその結果からコンセプト・プログラムをどう作ればよいのか、コンセプト・プログラムは何とか考えられたが、それらをデザインへどのように変換・ジャンプし、具現化すべきかは大いに苦悩するものである。
建築家の職能の一つはコンセプト・プログラムをデザインする、空間として具現化することにあるといえるが、日本の学生は特にデザインへのジャンプが苦手であると氏が指摘する点、そして氏がAAスクール時代に格闘したデザインプロセスの実践やAAスクールの教職経験での逸話は、学生や教員にとって大いに参考になる記述である。
「心」「精神性」のあり方が問われる今日、本書で紹介されているデザインプロセスは、まちづくりや公共施設づくりのプロセスとしてより一層の発展性が期待され、氏の今後の活躍を大いに期待したいものである。
■追記
建築設計・デザインプロセスは、「論理と感性のせめぎあいの中で、限られた条件の基で空間創造をする」という解釈が一般に可能と考えられるが、現代日本の建築観はともすれば、古来より日本人が有する豊かな情緒・感性を論理性で駆逐する傾向にあるとも考えられるのではないだろうか?
これは換言すると「心」と対話する手法が欠如していること、現れる現象の中で論理的に説明できるものだけが理念・思想とされ、論理で説明できないもの言葉化されないものはこれまで注目されてこなかったのではないか。
その意味で無用の用たる空間を論理で説明することは可能だろうか?
私自身、現象学を中心とした建築計画に関わる各種の専門的な研究を通じて、現象として表れにくい「心」「無意識」「知覚」「感覚」についての知見が、建築設計・デザインプロセスにおいて未だ十分な役割を果たしていないことを痛感しており、この方面の臨床的・実践的研究の必要性を経年的に感じていたところである。
今から10年程前、九州大学で開催された人間環境学会において、精神分析医北山修(歌手名きたやまおさむ)氏の精神分析学の視点からみた「環境の意味〜抱えることの解釈〜」に関する講演を聴く機会を得た。
北山はその時、「無意識」な局面・様相をまずは何らかの形で顕在化する、そのための方法の一つとして言葉化することの重要性を説いたが、それ以来、特に言語手段が未発達な「子どもや青少年の心」と「無意識に抱えられている物的環境〜建築・家、人的環境〜親・身近な人・友人、社会的環境〜etc」に対する認識や評価構造に強い興味・関心を抱くようになった。
しかしながら、「心」と「対話」する手法についてこれまでいろいろ試行錯誤を繰り返しているが、これはという手法にはたどりついていないのが現状である。
「遥か昔に人類は月へ人を送ったが、いまだ近くの学校に行けない子どもがいる」。
この言葉は、数年前に臨床心理を専門とする京都大学の皆藤章氏がある講演会で紹介したもので、「技術」では「心」の問題は解決できないという臨床心理学会の大命題であり、私個人にとって今も忘れられない言葉の一つとなっている。
連氏が今回出版した『心と対話する建築・家』を何度か通読し、ユング心理学への深い造詣と精力的なデザイン実践活動に刺激・感銘を受け、建築計画研究のパラダイムシフトの必要性と新たな計画・デザイン手法の模索・提案の思いに駆られている今日この頃である。